• トーク

2024年10月12日

直島新美術館プレトーク第三弾

「アジアの現代アートと
ベネッセアートサイト直島、そして直島新美術館」

2024年10月12日、ベネッセハウスレクチャールームにおいて、直島新美術館の開館に向けたプレイベントの第三弾として、北九州市立美術館の後小路雅弘館長をお迎えし、トークとディスカッションを行いました。アジアの現代アートの歴史的な流れをテーマに、歩みを振り返り、語り合いました。

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2024年10月12日

直島新美術館プレトーク第三弾

「アジアの現代アートとベネッセアートサイト直島、そして直島新美術館」

2024年10月12日、ベネッセハウスレクチャールームにおいて、直島新美術館の開館に向けたプレイベントの第三弾として、北九州市立美術館の後小路雅弘館長をお迎えし、トークとディスカッションを行いました。アジアの現代アートの歴史的な流れをテーマに、歩みを振り返り、語り合いました。

三木あき子(以下:三木):
直島新美術館館長の三木あき子と申します。直島新美術館プレイベント第3弾のテーマは「アジアの現代アートとベネッセアートサイト直島、そして直島新美術館」です。直島新美術館はアジアの現代アートを中心に展示する予定で、本日は北九州市立美術館の館長である後小路雅弘さんとともに、アジアの現代アートの歴史的な流れを少しだけ振り返ることができればと思います。

まず、私から直島新美術館についてお話ししたいと思います。1995年のベネッセハウス ミュージアム(当時:直島コンテンポラリーアートミュージアム)の開館から直島新美術館まで、 ひとつの島の中にこれだけ美術館やアート施設が集中している場所は、世界中を見渡してもないと思います。安藤忠雄さんの設計によるベネッセアートサイト直島における10番目のアート施設である直島新美術館は、新しい美術館がまたひとつできるということだけではなく、これらをつなげさらなる美術館群としての発展の原動力のひとつになっていければと考えています。そして、ベネッセアートサイト直島の理念である「自然、アート、建築、コミュニティの融合」をベースに、多様な視点や価値観の創出を進めていきたいと考えています。
 展示に関しては、これまでは恒久展示の作品が多かったのですが、動きのある美術館として企画展示なども行っていく予定です。展示替えをどのくらいの期間で行うかは、都市の美術館のように2、3ヵ月ごとに替えるのではなく、恒久展示の作品を残しつつ、2、3年で替えるところもあれば、1年くらいの間隔のところもあるというように考えています。ギャラリースペースによって展示のサイクルを変えるという方針には、訪れるごとに少しずつ変化があり、新たな気づきを誘発し、繰り返し訪れていただきたいという思いがあります。

今回のプレイベントのテーマである「アジアの現代アートとベネッセアートサイト直島」ですが、最近になって「アジアのアート」を取り上げることになったわけではなく、現在に至るまでのベネッセアート直島とアジアのアーティストとの長きにわたる関係性がありました。
 アジアのアーティストとの関わりは、社名を福武書店からベネッセコーポレーションに変更した95年、ヴェネツィア・ビエンナーレにおいて「トランスカルチャー」展を開催した頃から既に始まっています。当時、国際的なアートシーンの中心は欧米で、ヴェネツィア・ビエンナーレも欧米の大御所作家中心の展示のなか、「トランスカルチャー」展はアジアやアフリカなど欧米とは異なる地域のアーティストの作品を展示したということで注目された展覧会でした。「トランスカルチャー」展には蔡國強や村上隆の作品も含まれていました。95年は「トランスカルチャー」展の開催とともに、「ベネッセ賞」を設立し、同展に参加した作家から授賞作家を選びました。
 その第1回の受賞者が蔡國強でした。ベネッセハウス ミュージアムで「トランスカルチャー」展の帰国報告展を開催、その後、蔡國強は98年に《文化大混浴 直島のためのプロジェクト》を制作しました。そして、ベネッセ賞の授与は、2016年からヨーロッパのヴェネツィア・ビエンナーレからアジアのシンガポール・ビエンナーレへと移行しました。シンガポールに移ってから1回目、通しで数えると第11回の受賞者はパナパン・ヨドマニーで、受賞作はこれまで小豆島の福武ハウス(当時)、ベネッセハウス ミュージアムで展示されてきましたが、作品の形態は展示される場所によって少しずつ変化しました。直島新美術館においてもさらに進化したかたちで展示されます。第12回はアマンダ・ヘン。第13回受賞者のヤン・ヘギュは、アピチャッポン・ウィーラセタクンと《ヤンの太陽&ウィーラセタクンの月》を共同制作し、現在、本村地区の「またべえ」で体験することができます。このようにベネッセ賞を通してアジアの現代アートのコレクションを構築するとともに、アーティストとの関係性を深めてきました。
 前述の小豆島の福武ハウスでは、2階空間を、アジア・ギャラリーとして、ベネッセアートサイト直島のアジア現代アートのコレクションを主に2019年から展示しました。所蔵するアイ・ウェイウェイの映像や、また、リー・キットなど、アジアのアーティストが新たに制作した作品も展示しました。福武ハウスのアジア・ギャラリーは、ある意味、直島新美術館の方向性を決めるきっかけであったといえると思います。

国際的なアートシーンを振り返ると、89年に冷戦構造の終結後、グローバリズムや多文化主義の流れが台頭します。今まで欧米中心であった国際的なアートシーンに、アジアやアフリカなど、欧米とは異なる地域のアートへの注目度が一気に高まりました。90年代以降、世界各地でアジアの現代アートを扱う美術館が創設されました。今日お話ししていただく、後小路雅弘さんが設立に関わった福岡アジア美術館は1999年に開館しました。オーストラリアのクイーンズランド・アート・ギャラリーは、1993年にアジアの現代アートにフォーカスした「アジア・パシフィック・トリエンナーレ(APT)」を開始しています。1996年にシンガポール美術館、2000年代にはいると2015年にナショナル・ギャラリー・シンガポール、2021年、香港のM+が開館しました。アジア地域のアートを包括的に調査、研究、収集、保存、発信する美術館は増えましたが、ただ、直島新美術館は、アジアの現代アートを扱うといっても、そうした美術館の活動とは異なり、あくまでもベネッセアートサイト直島の活動の方針である「アート、建築、自然、コミュニティの融合」、アートによる地域振興、そして、「よく生きる」について考察する場をつくるという方針のもと、歴史、文化的につながりの深いアジアのアーティストたちの創作に注目し、協働していこうと考えています。
 直島新美術館が、なぜアジアの現代アート中心とするのかという理由のひとつとして、日本も含めたアジアのアーティストの代表作を、常に見られる美術館が日本には少ないので、直島にそういう場所をつくりたいという福武總一郎名誉理事長の意向がありました。それは、自分たちの歴史や文化について考えることでもありますし、「美術館群」というコンテクストにおいて、各館の特徴を明確化するとともに、より多様な文化歴史的背景のもとに生まれた表現に触れる場の創出を目指すものでもあります。

80~90年代あたりからアジアの現代アートが注目されるようになり、日本においては90年代に"アジアブーム"のようなことも起こりました。80年代には韓国の現代アートの紹介はありましたが、90年代になって、中国、台湾、タイ、インドネシア、シンガポール、インド......とアジアの多くの地域の現代アートが紹介されるようになり、私たちの知識やネットワークも広がっていきました。福岡市美術館は80年代の早い時期からアジアの現代アートに注目していました。それでは、後小路雅弘さんにお話しいただきましょう。

後小路雅弘(以下:後小路):
私は現在、北九州市立美術館の館長をしておりますが、今日お話しする内容は、私の学芸員としてのスタートである福岡市美術館でのアジアの近・現代美術との関わり、そして90年代には福岡市美術館の仕事をしながら、福岡アジア美術館の設立に取り組んだということがベースにありますので、90年代の話から始めさせていただきたいと思います。現在のアジア現代アートのさまざまな問題や、あるいは特徴というものは、おおよそ90年代に起こったことが今日まで続いていると私は考えています。

アジアに焦点を絞った世界初の現代美術展は、1980年に福岡市美術館で開かれました。私も20代前半の新人学芸員として、この展覧会に携わりました。90年代以前のアジアの美術はどうだったのかというと、額縁に入った絵画、ブロンズ、石や木でつくられた台座の上にのっている彫刻等々、皆さんのイメージの中にある近代美術、あるいはモダンアート的なものが80年代のアジア美術の主流でした。それが90年代直前くらいから急速に美術のありようが変わってきます。例えば、タイのアーティスト・モンティエン・ブンマーの《農村からの物語》という作品は、身の回りにある日用品を使った空間造形で当時の代表的な作例といえます。それから、タン・ダウというシンガポールのアーティストは、栄養ドリンクをテーマに展示をしました。かつて栄養剤はサイの角からつくられており、栄養ドリンクをつくるためにサイを乱獲して、アジアのサイはほとんどいなくなってしまったということが背景にあります。タン・ダウはまた、自身が歌って踊るパフォーマンスも表現形式として用いていました。
 この1980年に開催されたアジアの現代美術展は継続的に5年に1度開かれました。「第4回アジア美術展」のテーマは「態度としてのリアリズム」でした。様式としてのリアリズム、つまり、本物そっくりという意味でのリアリズムではなく、自分たちの身の回りの現実をどのように表現していくのかという意味でのリアリズムという、現実に向けての"態度"ということです。
 この「第4回アジア美術展」では、シンガポールのアーティスト・リー・ウェンが自身の体を黄色に塗り――それは黄色人種ということを強調しているのですが――展覧会の会期中、お米を使った作品を床につくり、そして、町の中にも出ていくというパフォーマンスを行いました。
 フィリピンのロベルト・フェレオの作品《ピンタド》――ピンタドというのはフィリピン人を表しています。フィリピンはスペイン植民地でしたが、ピンタドはスペイン語で「描かれた」という意味で、体中に刺青をしていた原住民のことをスペイン人は「描かれた人」と呼んでいました。植民地支配の中でどのような苦難の旅をしてきたか、自分たちの歴史をフィリピンの民衆の立場から語り直す作品でした。

80年代末から90年代にかけて、アジアの美術は大きな変革の時代を迎えました。それはモダンアート的な作品から、いわゆる現代美術、現代的な表現に変わっていくということです。具体的にいうと"主題(テーマ)"が変わります。美学的なものではなく、社会的、政治的なテーマが増えました。身の回りの現実、あるいは、自分たちの歴史への「眼差し」というような主題です。それから"表現形式"も変わりました。額縁に入った油絵というものではなく、インスタレーション――設置する場所に合わせた仮設的な空間造形や、自分の体を使ったパフォーマンスが圧倒的に増えました。"表現材料"も変化しました。それまでは、高級な画材、大理石、ブロンズのような特権的な材料が芸術を成立させるものだったのですが、身の回りにある日用品を使って作品をつくるというようなことが起こりました。当時、アーティストたちに聞いたのですが、社会的、政治的なテーマや身の回りのことを表すためにはそれまでの表現形式では足りないということで、インスタレーションのような新しい表現形式を取り入れて自分たちの思いを伝えようとしたということでした。90年代は、主題から形式まで変化した時代でした。
 そのような大きな変化の背景には、アジアの経済発展がありました。それまで大多数の貧しい人と、一部の限られた大金持ちというような構造があったなかで、経済発展とともに都市に住む中間層というものが生まれてきます。経済発展には、開発あるいは都市化といった光の部分もあれば、反動として環境破壊や公害などの影の部分もありました。日本も同じような道のりを歩んできたのですが、伝統的な農村を主体とした共同体が解体し、人々は都市に出ていって、核家族化するというようなことがほかのアジア地域にも起こりました。
 それから政治体制の激変という背景もあります。1989年にベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の崩壊、アジアではその余波を受けて、民主化の波が起こりますが、それに対する反動も同時に起こりました。中国の天安門事件は、民主化に対する政府の抑圧、弾圧のひとつの象徴的な表れだったと思います。中国は当時、市場経済を取り入れて、赤い資本主義などといわれましたが、その行く末は、皆さんがご存じのとおりです。このようにアジアは政治的な体制から変化していく。それから、インターネットはまだなかったとはいえ情報通信機器の発達によって、衛星テレビもアジアで見られるようになり、若い女性のファッションは国ごとに特徴がみられるということがあったのですが、日本のギャルのファッションがインドネシアでも見られるようになり、次第にファッションは画一化されていきました。また、交通手段の発達によって、物流、情報、それから人の往来が盛んになり、アジアに生きる人たちの生活が大きな変化に見舞われることになりました。その変化に対して、どのように応答、対応していくのかということが、この時代に見られたアジアの美術の変化の背景にはあります。

中国の現代アートの状況について少しお話します。80年代初頭、それまで完全に閉じられていたところに世界の美術情報が100年分くらい一気に入ってきた中国の当時の美術家たちは、それらを取り入れて、いろいろな表現をしていくという、ある意味、混乱した状況にありました。1985年、「85美術運動」というのが起こり、過激で前衛的な表現が広まっていきます。その活動の中心だったのはアモイダダというグループです。
 80年代に劇的に変わっていった中国現代アートに焦点をあてた展覧会が、89年、北京の中国美術館で開催されました。呂勝中というアーティストの作品は、人型をたくさん集めて燃やすというものでした。中国では魂が体から離れてしまうと病気になるといわれており、中国という国家の魂が中国という体から離れている、それを呼び戻すために小さい赤い人型を使って、国の病気を治すというテーマの作品でした。

90年代から2000年代になり、私がアジアの美術を見て回っていた時、アジアのアーティストたちの中でコミュニケーションへの関心が高まっていると感じました。もちろん、芸術表現というのは、"コミュニケーション"なのですが、そういった意味だけでなく、作品制作や鑑賞を通して、コミュニケーションを誘発するような、そして人々の参加を促す作品が増えていきました。アジアの90年代から2000年代にかけての作品を読み解くキーワードは、「コミュニケーション」、「コラボレーション」、そして「コミュニティ」だと思います。コミュニティは共同体や地域社会ですが、一番小さい単位は家族でしょうか。コラボレーションという、誰かと共に作品を作る、展開していくという手法を通して、コミュニケーションを実際につくり出す、あるいはコミュニケーションを回復するというような作品が増えました。そのようなキーワードの発見もあり、福岡アジア美術館の開館記念展の「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ」は「コミュニケーション――希望への回路」というタイトルにしました。先ほど三木さんからお話があった第12回ベネッセ賞の受賞アーティストのアマンダ・ヘンは、この「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ」で、母親との関係性をテーマとした作品を展示しました。

アジアのアーティストの作品についていくつかお話しします。フィリピンのアーティストから歯ブラシを5万本集めてくださいと言われたことがありました。使用中および使用済みの歯ブラシを集めるは実に大変でした。私が知らない女性に、あなたの使っている歯ブラシをくださいとお願いしただけでも犯罪になりかねない。アート作品のために必要だと説明しても、なぜ、歯ブラシがアートになるのだという話になってしまいます。このようなやりとりを介して歯ブラシを集めていくプロセスこそが、アーティストにとって大切なことで、そこで生まれるつかの間の「歯ブラシコミュニティ」こそが、アーティストがつくりたい作品だということです。実際には、2万5000本しか集まりませんでした。
 また、中国のある村に約10年間住んでいたアーティストは、その村の人たちの肖像画を描くのですが、アーティストだけが描くのではなく、村の人も描く――お互い会話しながら描き合うという手法で、肖像画を介してコミュニケーションが生み出されるという作品でした。
 パキスタンのアーイシャ・ハーリドという女性アーティストについてお話しします。パキスタンには細密画の伝統があります。90年代、国立の美術学校の細密画のクラスで女学生たちが伝統的な細密画を学び、今日的なテーマで細密画を制作するということが盛んに行われました。その代表格がアーイシャ・ハーリドです。「ビーナス誕生」という作品は、ボッティチェリの「ビーナス誕生」のような自らの裸体を誇るように立っている西洋のビーナスとは異なり、丸い円の中で胎児のようにうずくまっているアジアのビーナスが細密画で描かれているものです。イスラムの女性が置かれていた状況を象徴的に表す作品だと思います。
 最後に、福岡とタイを行き来して活動しているアーティスト、ナウィン・ラワンチャイクンについて話したいと思います。北九州市立美術館の館長にならないかとオファーをいただいた時、通常、館長は展覧会を企画したりしないのですが、展覧会をしてもいいと言われたので作品の制作依頼をしたのがナウィン・ラワンチャイクンでした。私が生まれた北九州の小倉には、庶民の台所と呼ばれる旦過市場という古い市場があります。私はその市場のすぐそばで生まれたのですが、母親とそこに買い物に行ったことや、両親が生きていた時代の温かい思い出があります。そういった個人的な思い出は、ほかのたくさんの人々にもあるだろうと思いました。市場の個々の店舗がリノベーションでビルになることが決まり、当時の面影がなくなってしまう前に、人々の記憶をアート作品として記録していくことをナウィン・ラワンチャイクンに依頼して、旦過市場をテーマに作品を制作してもらいました。
 ナウィン・ラワンチャイクンが旦過市場を巡り、人々と会話をするなかで、さまざまなファミリーストーリーに出会い、それが映像作品に反映されていきました。そこにナウィン・ラワンチャイクン自身のファミリーヒストリーも取り込まれて、交錯していくという作品になりました。「コミュニケーション」、「コラボレーション」、「コミュニティ」という90年代から2000年代にかけてのテーマが展開され、成熟したという一つの例としてナウィン・ラワンチャイクンの作品があると思います。

三木:
私も後小路さんと同じように90年代からアジアのアーティストと仕事をしてきました。その頃から、いったいアジアとはどこを指すのか、アジアの現代アートとは何なのかということを考え続けてきたように思います。
 後小路さんが設立に関わられた福岡アジア美術館が、館名に「アジア」と明示されたことについて、後小路さんとしてはどのように考えていらっしゃいますか。

後小路:
既に福岡市美術館という市立の美術館があるところに、もう一館、アジア美術館というものをつくることが果たして良いのかどうかという疑問は当時あったと思います。ただ、世界にはいろいろな地域がある中でアジアという地域の美術だけを対象にするという意味で「アジア」と付けたということではありませんでした。「アジア美術館」となった理由は、私たちはアジアの一員であり、負の側面も含めて深い関わりを持っているということを前提に、アジア地域の美術作品を見ていくことによって、私たちは一体、何者なのかを考える場所としての美術館をつくろうとしたということがあると思います。また、「美術」とは何かということを考えるとき――日本語における「美術」は、ARTを翻訳して明治5年に誕生した言葉ですが――西洋の美術概念や価値観ではなく、アジア固有の「美術」に当たる概念や価値観を考えることによって、私たちが一般的に前提としてとらえている美術とはこういうものだという考え方を問い直すための場所として美術館をつくることに意味があると考えました。ですから、単にアジアの美術を展示するのではなく、展示を含めてさまざまな意味でアジア的な方法を探り、アジアとは何か、美術とは何かを現在進行形で問う美術館をつくろうとして、福岡アジア美術館は誕生したというわけです。
 さらにいえば、アジアの現代美術に取り組んだのは世界的な欧米中心主義に対する反省と多様性、多文化主義への志向の一つの表れだったと思います。では、なぜ福岡市がいち早く取り組んだのかというと、「国際造形連盟」というユネスコ傘下の美術家を職業とする人たちの世界的な団体があり、1973年、ブルガリアのソフィアで開催された大会で、これからは欧米中心ではなく、地域それぞれの文化的な独自性を追求していこう、そのために地域ごとの展覧会を組織しよう、アジアならアジアの展覧会を開催しようという決議がなされました。「国際造形連盟」の日本委員会のメンバーは大変熱心で、アジアのいろいろな国を回り、その考えを広めました。日本国内ではアジアの現代美術展を開催しようといろいろな美術館に声をかけていました。当時の福岡市長にも話がきて、開館予定だった福岡市美術館でアジアの現代美術展を開催すればいいのでなはいかという流れになったようです。
 ただ、なぜ福岡でアジアの現代アートの展覧会を始めたのかということについては、他の答え方、ストーリーも可能だと思います。ひとつは地理的な近さです。古代から大陸や朝鮮半島からの文化が入ってきて人々の交流も盛んでした。そういう歴史的な背景もあるかと思います。また、それまで誰もできるとは思っていなかったアジアの現代美術展を開催するというのは、福岡人のキャラクターというか、パーソナリティーにも関係していると思います。福岡人は、お祭好きで新しいもの好き、進取の気性があるのです。

三木:
福岡アジア美術館の成り立ちには地理的な理由もあるという話ですが、オーストラリアのクイーンズランド・アート・ギャラリーも、かなり早い時期からアジアの現代アートにフォーカスしていたといえます。オーストラリアの現代アートの中心はシドニーやメルボルンで、ブリスベンという都市に美術館をつくる際、どのような特色を出していくかということとアジアの作品にフォーカスするという方針は関係していると思います。90年代のオーストラリアの国としての政策も、地理的に近いところと関係性を深めるという方向性だったので、クイーンズランド・アート・ギャラリーは、環太平洋圏に焦点を定めたアジア・パシフィック・トリエンナーレを立ち上げています。
 一方、経済立国のシンガポールは、経済だけでなくアジアの文化のハブを形成するという考えのもとに東南アジアの現代アートに特化した美術館をつくりました。香港のM+の開館は、香港が中国に返還された後も、アジア視点の現代アートの中心地として、中国と世界の文化を繋ぐという役割のもと、アートだけでなくデザイン、建築など幅広く扱うアジア初の視覚文化のグローバル美術館と位置付けられています。美術館の成り立ちは、政治、経済、地理、歴史......と、さまざまなことが関わっています。
 特に、アジアの現代アートと向き合うとき、どうしてもそれぞれの国の歴史は避けられないことです。日本による植民地化の歴史は切り離せない問題で、日本側から見た歴史では不十分で、相手の国がどのように歴史をとらえているかとアート作品を通して突き付けられることもあります。

後小路:
戦争の問題は大きな問題で、それは決して避けては通れません。アジア美術の調査を始めた頃、戦争と関わった人たちのお話もうかがいましたし、シンガポールの近代美術において重要な作家は、日本軍に殺されたという事実があり、家族の方から面会を断られたこともありました。

三木:
後小路さんはアジアの現代アートの魅力は、何だと思いますか。一方でその難しさにはどういうことがありますか。

後小路:
アジアの美術の魅力とは何か、アジアの美術の特徴は何か――よく聞かれる質問ですが、質問されると、いつも少し困ってしまいます。というのは、ステレオタイプなアジア美術像というのがあります。アジアの美術は人に優しい、温かい。あるいは逆に、政治的に混乱している、暴力や抑圧されている等々......。そう言ってしまうことによって先入観やステレオタイプの上塗りや強化に加担してしまうのではないかと考えてしまうのです。つまり、アジア美術の魅力はたくさんあるのですが、それについて答えようとすると、先入観や偏見を強化してしまうのではないかという恐れを抱いてしまい、そこがアジア美術の難しさといえるかもしません。アジアは非常に広大な地域であり、宗教や民族も多様で、ひとくくりにはできないのですが、先ほどから繰り返し言われている「欧米的な美術の価値観」との違いについてはよくよく考えないといけないと思っています。

三木:
今日は「アジアの現代アートとベネッセアートサイト直島、そして直島新美術館」というテーマで進めてきましたが、アジアのアーティストたちと活動するということは、近隣の人たちをその歴史的背景も含めて"知る"ということだと思います。そして、現代アートというからには "現代"を反映しており、たとえ国や歴史的背景が異なるとしても、どこか共通する問題意識をアジアの現代を生きるアーティストたちはもっています。直島新美術館においても、アジアのアーティストの作品を通して、自分たちが生きている社会や環境への理解や学び、異なる文化への相互理解を促すような活動を続けていきたいと考えています。

登壇者プロフィール

三木あき子

Akiko Miki

三木あき子

三木あき子

Akiko Miki

直島新美術館館長、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パレ・ド・トーキョー(パリ)チーフ/ シニア・キュレーター(2000-2014年)、ヨコハマ・トリエンナーレ(2011年、2017年)の芸術監督、ディレクター等を歴任。バービカン・アートギャラリー(ロンドン)、台北市立美術館、韓国国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館等のゲスト・キュレーターも数多く務める。

後小路雅弘

Masahiro Ushiroshoji

後小路雅弘

後小路雅弘

Masahiro Ushiroshoji

1954年(昭和29年)5月23日 小倉市生まれ(現・北九州市)
1978年九州大学文学部卒(美学美術史専攻)。同年福岡市美術館準備室学芸員。学芸課長として1999年開館の福岡アジア美術館の開設を手掛ける。2002年九州大学大学院人文科学研究院教授に就任(2020年まで)。2021年より北九州市立美術館館長。
福岡市美術館・福岡アジア美術館学芸員として、アジア美術展や「東南アジア─近代美術の誕生」展などの企画開催を通して、アジアの近現代美術の紹介に努めた。