内藤礼 後編「私は生きていることを喜んでいます」
自然の生気(アニマ)・人間と世界との連続性の探求
《きんざ》(2001)での体験を契機として、内藤は白い壁で構成されたいわゆるホワイトキューブ空間とは異なる、より多様な場所での制作に積極的に挑むとともに、徐々に人のいる風景を見たいという関心や、光や水、風などにより、偶然性そのものの自然の生気(アニマ)や、人間と世界の連続性の探求を推し進めることとなる。
2006年には、愛知県佐久島で島の自然と向き合い、アカニシ貝の分泌液と海水で染めた布が日光にあたることでムラサキ色になる「貝紫染め」に触発されて、自身で薄く染めた布にイメージの顕れを見出すとともに、島の土と水で作った船形に魂をのせ海に返す《舟送り》を一般の人々とともに行った。また、細い水路のような容器に海水を入れ、鑑賞者が息を吹きかけて小さな波を起こす作品《タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)》を、実際の海に向けて屋外の大自然のなかに設置したりもした。
「海や空へ向けて息を「送り返す」という、与えられたことの返礼と、生気についての作品です。(...)私にとって制作とは、自分のいる世界を、そういう風に実感を持って知っていくということなんです。地上はどんなところだろう?と。言葉は知っていてもそれが何なのかは、自分で腑に落ちていかないと私に世界はないようなもの。これまで生きてきた人々が感じたからこそ言葉になって残っている、と考えると、自分がそれを実感できたら、これも静かな共有だと言えると思う。自分の中にたくさんの人がいると感じられることは、地上の幸福のひとつかもしれません2」
そして2007年には、大正時代に建てられたかつての水力発電所を美術館に転換した、富山の下山芸術の森発電所美術館の巨大な空間において、天井から水滴が不定期に落ちてくるという、小さな水滴の発生とその動きがもたらす生気を作品化した。
2: 内藤礼インタビュー『ART iT 第23号』、2009年3月初出
母型:水、人、全ての受容へ
はたして、恵みの水は内藤を再び瀬戸内の島へ、そして新たな恒久設置プロジェクトへと引き寄せることになる。西沢立衛設計の美術館構想は2004年頃に始まったが、二転三転あった末、小豆島の西方にある豊島の、周囲を棚田に囲まれた場所で検討されることになった。上空から見ると、水滴が地上に落ちた瞬間のかたちを思わせる、地形のカーブに沿った自由曲線のカーブの作り出す、40×60m、高さ4.5mものコンクリートの巨大なドーム状のワンルーム空間という西沢立衛の建築案がほぼほぼ出来ていた段階で、母性を感じさせるとともに水の作品を展開していた内藤に声がかかったのである。
そして、今度は棚田の自然に囲まれた環境で、建築家が考えた建築プランをどう受容していくのか、という自身への問いのもと、大きな開口部からの四季の光や雨風の入り方を調べて、その位置を微調整するなど、建築的に問題のない範囲で相談していったという。そうして生み出された《母型》(2010)は、空間自体を作品と捉え、コンクリートの床の無数の穴から水が湧きだし水滴となって生命体のように動き、大きな開口部から入る雨や風、光の状況で刻々と風景が変化する、全てを受容することで豊かになる器である。
「雨が降ったら雨が降って良かったと思える作品、何々が良くて何々が悪かったとならない作品、自然との関係で、より豊かになっていくような、人がそこに来ることを待ち望んでいる、生きている人々の姿が美しいと思える、人を受け入れる器にしたいと思った」
それはまた、無垢で無償な体験、あるいはお金に還元することの出来ないアートの感動を得られる場所であり、内藤にとって、アートは何かという考え方を形成する大きなきっかけでもあったという。
開館から2年後の2012年、同建築は日本建築学会賞(作品)を受賞するが、その選考において、「これは、はたして建築なのか?」という議論があったと聞く。確かに、屋根の部分に大きく開いた2つの穴、そして入口の3つの開口部はカバーされておらず、雨風が直接入る半屋外建築の役割を既存の概念で捉えるのは難しい。しかし、その審査において「切り取られた人工環境が新しい自然環境をつくるような不思議な循環を感じさせる」「『新しい建築」の出現3」と捉えられたのは、内藤礼の作品との組み合わせ故であり、両者の才能の出会いこそ、奇跡のように思える。
自然と建築とアートが境界をなくし、ひとつに連なったこの稀有な造形は、豊島の歴史的な文脈においてもまた、象徴的な意味を持つ。豊島は、中央に山を抱き、豊富で清らかな水が絶えることなく湧きでることから、その昔、訪れた弘法大師がのどの渇きを覚えて地面を掘ったところ、水が湧きだしたという言い伝えもある、その名のごとく自然豊かな場所である。だが、その島の西端に、1970年代から80年代にかけて有害物質を含む産業廃棄物が大量に不法投棄され、日本最大級の産業廃棄物不法投棄事件の舞台となってしまう。
島民が団結して県を訴え、香川県庁前でのデモや東京・銀座での抗議のキャラバン、理解と支援を求めての香川県内100ヶ所座談会などによる「草の根の闘い」を貫き、発端から25年という長い闘いの末、遂に2000年に県が責任を認めて、知事が謝罪、原状回復のための産廃処理事業が進められることとなった4。ちょうど、この闘いが勝利を得た頃、直島の《きんざ》の制作で内藤が得た、自然のもたらすものの豊かさへの気付きから約10年の時を経て生み出された《母型》はまた、島の歴史と再生のシンボルでもあるのだ。
2023年3月、国による財政支援が終わり、約20年にわたった県の処理事業もひとつの区切りを迎えたが、地下水の汚染状態はまだ完全にはもとに戻っていない。豊島美術館は、数十年、いや数百年と、地下水が完全にもとに戻る過程を見守り続け、そして二度と大地が傷を負うようなことがないことを願う使命のもとに存在しているのかもしれない。
3: 「豊島美術館 西沢立衛君」日本建築学会ウェブサイト
https://www.aij.or.jp/jpn/design/2012/pdf/g-sakuhin01.pdf
4: 「豊島事件の経緯|豊島事件を見る」、ウェブサイト「豊島・島の学校」
https://www.teshima-school.jp/struggle/history/
全面的な生の肯定
「世界に内在する美を形象化するとともに、時間と他者がもたらす変化を受け入れ、これらに返礼として水を捧げてきた内藤の集大成5」とされる豊島美術館の完成した翌年、内藤は初めて人型の具象彫刻《ひと》を手掛けることとなる。
それまで具象の絵さえ一切描いたことがなかったにもかかわらず、2011年、東日本大震災で自然の脅威を目の当たりにして、「ひとを増やさなくてはいけない」という衝動にかられ、無意識に手を動かし、角材を手に取り、1体ずつ彫り始めたという。彫刻としての完成度や巧拙を意識することなく、素朴な感情で手を動かすことで形になっていったという《ひと》は、性別もはっきりしない、精霊のようにも見える存在で、いずれも小さくとも自立した立像であることが特徴的である。「彫っていると助けられるというか、心が落ち着く」といい、すでに500体近くを彫り続けているという。
この、内藤が「見たものを希望と信じて疑わない存在」と捉える《ひと》は、以降、彼女の展示の主要な要素のひとつとなっていくが、特に注目されるのが、2013年に広島県立美術館で行われた、被爆地広島から「平和」への思いや未来への希望などを発信するという企画での展示である。これまで、広島生まれながら、原爆の記憶についてほとんど語ってこなかった内藤は、ここで初めてその主題に向き合うことになる。
本展示で彼女は、原爆に溶かされ焼き切れた17個のガラス壜の残骸の傍らに《ひと》を配置したほか、水の満たされた現代のガラス瓶に生花を活け、慰霊のための空間を作った。
例えば、宗教学者・文化人類学者の中沢新一が、「人類が体験した最大級の暴力にさらされた都市に生まれた」、作家が「ほとんど類例のない『いっさいの力を無化する』空間を、作品としてつくりつづけてきたことには深い意味がある」と言及しているように6、内藤の創作と原爆の関係については、既に複数の批評家が指摘している。
内藤にそのことを聞くと、小学生の頃から、学校で平和教育はあったが、家族や周囲が原爆の記憶について語ることはほとんどなく、東京に来て初めて広島出身者への差別が現実としてあったと知り衝撃を受けたという。だが、自分が生まれたのは戦争が終わってほんの16年しか経っていない時期であることを考えると、意識はしていないが、何らかの影響を受けているのは確かだと思う、と静かに答えてくれた。その時、一瞬だが、彼女のものづくりにおける、自分が地上にいることを確かめたいという思いや、全面的な「生の肯定」の根幹に触れたような気がした。
5:「作品リスト | 解説」『内藤礼 | 1985-2015 祝福』millegraph、2015年
6: 中沢新一「マトリックスの割れ目――内藤礼の空間について――」内藤礼 『地上にひとつの場所を』筑摩書房、2002年
祝福
内藤は、2009年の神奈川県立近代美術館 鎌倉での個展以降、2014年に東京都庭園美術館、2018年に水戸芸術館現代美術ギャラリー、そして2020年に金沢21世紀美術館において、館内の複数の展示室を使い全体をひとつの作品とした大規模な個展を次々と手掛けてきた。ものとしての展示の要素は極めてミニマルながら、建築の構造や意匠を展示に取り込み、まるで場所に息を吹き込むかのようなかたちで、そのスケールはどんどん拡大していっているのである。
彼女の創作は、しばしば、最初に作った作品がかたちを変えて発展し続けている、あるいは全てが繋がり長年かけてひとつの作品を作り続けているようだと言われる。一方で、もちろん、展示の場所・建築やその時の心境によって、地上の生の風景へのアプローチは異なり、個々の作品にも時に驚くような変化が感じられることがある。
例えば、近年では、2015年に初めて発表された《顔(よろこびのほうが大きかったです)》(1993-1994年頃)があげられる。これは、雑誌の女性たちの写真ページを一度くしゃくしゃにして広げ直した、いわゆる「ポートレート」作品のようなものである。あるとき内藤は、壁に貼っていた笑顔の女性のグラビアを丸めて投げた。すぐにそれが人であることに気づき、元に戻そうとしたところ、現れた女性の笑顔がより深い笑顔になっているだけでなく、そこには人のあらゆる感情が備わっていたという。具体的な人物写真など、これまでの内藤の作品では考えられなかったことだ。
また、2022年に発表された作品シリーズ《color beginning》も、これまでの目を凝らさないとほとんど見えないような薄く淡い色のイメージに対し、驚くほど鮮やかな色彩が施されていた。コロナ禍で緊急事態宣言が発出され、準備していた個展が延期となるなどの状況で、何か明るく軽やかなものに触れたいという気持ちから、改めて紙に色を置いてみたものだという。
日々描き続けるなかで、「内容や意味といった目的に向かって絵を描くのではなく、心と指と顕れが深いところで一つであるように、『生きていることそのもの』であるように、ただそのことを思いました。それは、『人間が絵を描く行為とは何か』『人間とは何か』という問いにつながっています7」
守られた閉鎖のなかで美しいものを見ることから始まり、内面の神秘的な体験と日常の体験が共にある地上へ......。そして、他者の存在を認め、時間の連続性を感じ、自然を受け入れ、全ての繋がりと関係性のなかで日常に顕れる命や生きることについて、あるいは人間そのものについて向き合おうとするかのような内藤は、今日も静かにひとり自宅で、古来より繰り返されてきた「ものをつくる」ことの意味を探るべく、また、生きて死にゆくために作り続ける。
「私もいろいろ思う時もあるけれど生まれてきて、生きているということを考えると、それは「生きてなさい」とか「喜びなさい」と言ってもらっていることだと感じます。そして、私が神様のような存在にお返しができるとしたら、「私は生きていることを喜んでいます」、「たくさん受け取っています」という思いを形にすることではないかと思うのです8」
7: 内藤礼が語る、アートにおける無意識の重要性。「生きていることそのものであるように」美術手帖デジタル版、2021年11月2日
8:「TALK地上の光と生きものと 内藤礼×中村桂子」季刊「生命誌」89号
本稿は基本的に本人への聴き取りを基に構成。
その他、ギャラリストの小柳敦子氏からも話を聞いた。
参考文献:
内藤礼インタビュー「すべての存在に開かれ、呼吸する家」『直島通信』2000年1月号
内藤礼『地上にひとつの場所を』筑摩書房、2002年
内藤礼、中村鐵太郎『内藤礼〈母型〉』左右社、2009年
内藤礼インタビュー『ART iT 第23号』2009年3月初出
『内藤礼「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」展 図録』神奈川県立近代美術館、2009年
『内藤礼 | 1985-2015 祝福』millegraph、2015年
『豊島美術館』公益財団法人福武財団、2016年
『「内藤礼―明るい地上には あなたの姿が見える展」記録集』水戸芸術館現代美術センター、2019年
三木あき子みき あきこ
キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。
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