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Benesse Art Site Naoshima
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大竹伸朗 前編「アート界から遠く離れ、日常のなかでアートを作り続けること」

各島で展開される数々の作品・施設群

ベネッセアートサイト直島は、その規模および内容や活動において世界に類をみないユニークな場所である。その活動はアートを中心とするものの、それだけに限定されるわけではなく、また、直島と名前が付いてはいるが、実際は近隣の豊島、犬島を加えた3島で展開されている。

美術館やギャラリーと名の付く施設は複数あるが、ほかにも、集落のなかで使われなくなった古民家等を利用してアーティストが家全体を作品化した「家プロジェクト」や、自然環境のなかには屋外彫刻インスタレーションなども点在する。

アートがいわゆる建築の箱の中だけに限定されるのではなく、自然や生活のなかも含め幅広いエリアに展開する、まさに「サイト」であり、複数の施設で構成されるミュージアム・コンプレックス、あるいは島全体を美術館と捉えることも可能だろう。

数十年にわたって、この場所に継続的に関わりをもつアーティストの存在も特徴的である。なかでも、初期からこの場所で最も多くのプロジェクトを展開している作家が大竹伸朗だ。おそらく一人の作家の作品制作や展示をこれだけ幅広く継続的に展開している例は、世界広しと言えども、そうそうないだろう。

現在、常時見ることの出来る大竹作品を挙げると、まず直島では1994年以降、ベネッセハウス屋外の海岸沿いとカフェの外の芝生の上に恒久設置されている3つの立体作品《シップヤード・ワークス 切断された船首》《船尾と穴》《シップヤード・ワークス 船尾と穴》がある(いずれも1990年制作)。また、昔ながらの街並みを残す本村地区には、2006年に、かつて歯科医院兼住居だった建物を作品化した家プロジェクト「はいしゃ」と《舌上夢ぜつじょうむ/ボッコンのぞき》が完成。そして、宮浦港に近い宮ノ浦地区では、実際に利用できる銭湯であり、かつ作品でもある《直島銭湯「I♥︎湯」》が、2009年より営業中だ。

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2018年6月、《直島銭湯「I♥︎湯」》天井画の再制作時の様子(写真:井上嘉和)

一方、高松に近い女木島めぎじまにある休校中の小学校の校舎では、2013年より《女根/めこん》の展示が公開され、2016年には豊島の家浦岡集落にて、メリヤス針の製造工場跡を使った《針工場》も公開されることとなった。また、期間限定ではあったが、2001年に開催された「スタンダード」展での、閉じられていた商店内における《落合商店》の展示や、「Man Is Basically Good 大竹伸朗個展1982-2000」(2002年、直島コンテンポラリーアートミュージアム)、「既憶景」(2014年、宮浦ギャラリー六区)なども行われている。

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大竹伸朗《落合商店》、「スタンダード」展での展示風景、2001年(写真:上野則宏)

大竹伸朗は、1980年代初頭以降、様々なものやイメージを多層的にコラージュする手法による絵画、8ミリフィルム映像、ノイズ・ミュージックといった多様なメディアを用いた作品を手掛け、大きな注目を得るようになる。異分野のアーティストとの協働を含む旺盛な制作活動を通して、現代アートの世界に留まらない幅広い影響力を持つが、現代アートの難解さや権威と一定の距離をとってきたことなどもあり、2006年に東京都現代美術館で開催された個展のような主要美術館での大規模な個展が開かれるようになったのは、意外にも比較的近年のことである。

一方で大竹は、1990年代前半から現在まで約30年間にわたり、瀬戸内海の離島に継続的に関わり、まるで島々に展示室が分散され、全体でひとつの美術館を構成しているような壮大な夢の美術館のかたちを想起させる数々のプロジェクトを実現してきたのである。

高度経済成長期の記憶の風景

大竹伸朗は1955年、一般家庭に電化製品が普及し始めた高度経済成長期に東京都目黒区に生まれ、大田区、豊島区、練馬区などで育った。なかでも、大竹の記憶の原風景は、2歳から8歳くらいまでを過ごした京浜工業地帯の町工場が密集する大田区南六郷にあり、溶鉱炉のある工場や外国人の行き交う羽田国際空港、街中の銭湯や駄菓子屋のある商店街といった、1964年の東京オリンピックで大きく変貌する前ののどかさが感じられた東京の姿が脳裏に深く刻まれているという。

父親は鞄屋、蕎麦屋など様々な仕事を手掛けるが、根本的に手仕事が好きな人であり、母親は三味線や小唄・長唄をたしなみ、幼少期の大竹が、母親が毎週火曜日に通う新橋の稽古場について行った記憶が今でも鮮明に残っているという。

また、テレビが普及し始めるなか、アメリカのテレビ番組に映し出される夢のように豊かな生活に「文化洗脳」されるとともに、小学生の頃には、ちばてつや氏や手塚治虫氏らに憧れて漫画家を夢見るようになる。

引っ越した池袋や練馬区界隈には漫画家が多く住んでいた。自転車で行ける距離にあった手塚治虫創設の虫プロダクションや漫画家の仕事場に絵を描いたノートを持って行き、TVアニメ用の使用済のセル画をもらったり、手塚治虫氏に家に招き入れてもらったり、ちばてつや氏にサインをもらったりもしている。絵が上手かった大竹は、絵を介して友達を得るとともに、当時の若いスター漫画家たちの近所の子供たちへのやさしい対応にも触れることとなった。

この頃、大竹は8歳年上の兄の影響で音楽にも興味を持つようになる。テレビ局でアルバイトをしていた兄が借りてくる輸入レコードの楽曲だけでなく、ジャケットデザインにも大きく魅了されたようだ。

そして、1968年に東京国立博物館で開催されたレンブラント・ファン・レインの名作展を母親に連れられて観に行った大竹少年は、その写真のようなリアルな表現に驚き、油絵を描き始める。アンリ・ルソーの絵を見て自分でも描けると思ってやり始めたが、風景画や静物画を描くことに飽き始めていたのはつまらないと感じ始めていた頃、アンディ・ウォーホルやリヒテンシュタイン、トム・ウェッセルマン、クレス・オルデンバーグといったポップ系の現代アーティストたちの存在を知り衝撃を受ける。「好きなものを描く自由なアーティストの在りようがとにかくかっこよく、わけのわからないものを評価するアートの状況に、日本とは異なる、もっと広い世界の存在を感じた」と言う。

それをきっかけに、時間さえあれば一人で東京駅から銀座方面に歩き、画廊巡りをするようになる。そうして、アーティストとして生きている人たちの作品を数多く見て学びながら、美大を目指すようになるのである。

人と違った経験と生き抜く力――アーティストへ

1974年、大竹は東京藝術大学を受験するが不合格となり、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に補欠入学。自由を体現するアーティストを目指す自分にとって大事なのは、浪人して藝大という権威に入ることではなく、人と違った経験をすることであるとの考えのもと、一応入学はしたものの、さっさと休学して、北海道の牧場で無休、無給、住み込みで働くという行動に出る。

きっかけは、高校3年の時に音楽雑誌に掲載されていた、北海道に移住して牧場を始めた脱サラ家族の記事を眼にしたことだった。牧場に直接はがきを送って頼み込み、夜行列車で36時間かけて到着した牧場で、翌朝4時から毎日1トンもの牛の糞を運び出すという過酷な労働に従事する。この体験は大竹にとって、その後のアーティスト人生への覚悟や、どのような困難も乗り越えられるような生き抜く力、創作において、理論やコンセプト云々とは違った生命力を獲得することに繋がっていった。

1年後に大竹は東京に戻り復学するが、その2年後の1977年に再び休学し、今度は中華料理店の皿洗いで貯めた資金と餞別を手に、初めて海外に渡る。家賃が払えるかどうかのぎりぎりの生活だったというが、滞在先のロンドンで、後にブライアン・イーノらのレコード・ジャケットデザインを手掛けることになるアーティスト、ラッセル・ミルズや、ペインターで既にスーパースターだったデイヴィッド・ホックニーらと出会い、彼らとの交流を通じて大いに刺激を得る。

そしてこのロンドンで、蚤の市で購入した大量のマッチラベルをノートや本にコラージュした「スクラップブック」を作り始める。本の形態が持ち運びに便利ということもあったようだが、生きているうちに世界中に落ちている印刷物を貼ったら面白いのではと妄想を抱き、自分のやるべきことが見えてきたような気がしたという。

この「スクラップブック」シリーズは、後に着手することになる「ビル景」シリーズとともに大竹の代表作かつライフワークとなっていくのだが、それと同時に、その後の、香港やベルリン、ニューヨーク、日本各地へと機会あるごとに旅に出て、その土地で出会った人や、道で拾ったゴミやガラクタ、さらにはその場所のノイズや空気から触発されて作品を作るスタイルも確立されていった。

1978年に帰国・復学後は、銅版画やリトグラフ、シルクスクリーンなどの版画作品、印刷物や印画紙、フィルムによる作品を手掛けるとともに、音楽活動を開始。翌年、イラストレーションコンテストで最高賞を受賞したり、初めて盆栽雑誌や文芸誌、音楽誌のカットやポスター挿画の仕事を受ける。

また、卒業後の1980年には再びロンドンに渡り、ラッセル・ミルズらとともにDOMEによるサウンド・パフォーマンスを行うだけでなく、今度はノイズ・バンドを結成し、アルバムも5枚リリース。1978年に開始したノイズ・バンドは2年後に自然消滅してしまうが、この年、最初の印刷本「L.T.D」(東京オペレーションセンター刊)を刊行し、ギャラリーで初の個展も開催している。その後、1986年に出版した初の画集『《倫敦/香港》一九八〇』の豪華版が、同年の造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞(豪華本部門)を受賞し、翌年にはADC最高賞も受賞。また、1985年にはICAロンドンで海外初の個展、1987年には佐賀町エキジビット・スペースで個展「大竹伸朗展 1984-1987」が開催され、大きな脚光を浴びることとなった。

1970年代末から80年代前半は、西武百貨店が牽引するいわゆるセゾンカルチャーが台頭し、物質的な豊かさから精神的な豊かさへ、ものから情報への移行のもと、文化的なヒエラルキーが解体され、多様性と解放、越境へと向かった時代といわれる。アート界では、ポストもの派と呼ばれる活動や、環境を取り込むコンセプチュアルなインスタレーションプロジェクトなどが台頭し、当初は「絵を描くなんて時代遅れ」と馬鹿にされるような雰囲気を感じていたという。

しかし、その後、欧米から表現主義的な絵画の動向であるニューペインティングが紹介されると、一転して「ニューペインティングの寵児」などと呼ばれるようになり、美術業界の相変わらずの欧米礼賛主義や逆輸入文化崇拝による島国根性の嘘っぽさを身に染みて感じるきっかけとなった感じることもあったようだ。(後編「アート界から遠く離れ、日常のなかでアートを作り続けること」に続く)

三木あき子みき あきこ


キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。

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